2014年製作 韓国作品
監督・脚本 イ・ジョンホ
原作「さまよう刃」東野圭吾著
主演 チョン・ジェヨン
イ・ソンミン
何回も「予告編」だけは、他のDVDで見ていて、やっと借りた。
なぜ、見る勇気がなかったかというと、自分のこととして捉えてしまいそうだったから。
私にも娘がいるのです。
そして、娘が大きくなるまで、
1、「門限」(夏と冬で変わる。基本は6時)
「門限なんて、面倒〜」と娘に言われたけど、断固、大きくなるまで続けた。
2、「どこいくか、誰と一緒か、絶対チェック」
「何で、私だけ?面倒〜」と娘に言われたけど、断固、大きくなるまで続けた。
3、「夜間帰宅時は、兄を迎えに必ずつける」
「大丈夫だよ」と娘に言われても、必ず、兄を迎えに出した。
「夜に、犯罪は起きるのよ」と付け加えて。
等々をして、無事、成長しました!!
それは、私が若いときに、何とも思わず夜道を自転車で走っていたら、暴漢に襲われ、あやうく命を落とすか、暴行されたかという経験があるからです。
「九死に一生を得た」体験でした。
ですが、警察にそのときに届けにいって、さらに傷つくことが待っていました。
「よく助かったねえ」
そのときの事情聴取作業をしぶしぶやった警察官の台詞です。
「普通、強姦されたら、警察に届けないよ。まあ、あなたは未遂だったからねー」
そのときの衝撃は忘れません。
警察は充てにならない。
はっきり、自覚しました。
「あの辺りは、最近、強姦が多いんだよ。だから、よく助かったね、って」
「じっと立って、見張っとくわけに、行かないしね」
現場ってそんなものか?
という気持ちと一緒に、その事件があって、気持ちの定まらない小娘相手に、その一種独特な無神経ぶりにすごく、怒りを感じました。
もう何十年と経つのに、当時のことを詳細に覚えています。
時々、思い出しては、何も考えるわけでもなく、ただ、記憶を辿ってしまうときがあります。
それは、犯人には犯人のアングルから見た記憶があるでしょう。
そして、私にはわたしのアングルから見た映像の記憶があるのです。
簡単にちぎれたボタン、死角に連れ込まれそうになったのを必死で耐えて、引きずられないようにしたこと。
その場の判断で、紙一重だったのは確かです。
犯人が、その場を立ち去るまでの数分の記憶は、こびりついて離れません。
下手をすると、映像は出てくるのに、書き表すことが出来ず、どこから説明すればいいのかに詰まります。
いつも思うのです。
犯罪は起きてからでは遅い。
この映画の場合、犯罪被害者家族にとって、時間は止まったまま、「どうして守ってやれなかったのか?」
責め続ける日々が続きます。
この映画でも、刑事の台詞にある通り、
「あなたに変わって、犯人を捕まえる」
「法に従って、裁かれる」
そして、「耐えるしかない」
罪と罰、それを自分に問えない人間に、裁判はどこまで効き目がありますか?
映画内で、主人公が衝動的に、撲殺したあと、その子供と自分の娘との映像がオーバーラップするシーンがあります。
その衝動にかられた原因は、自分の娘のレイプシーンを撮影したものを見てしまったからです。
さらに、衝動にかられる理由は、その少年は「もの(盗んだ物がある。主犯格の友人が)の名前を口にする」
全く、少年の殴られてる理由は、女の子をレイプしたからではない。
思い出しもしない、思いつきもしない、悪いことで一番に思い出したのが「盗品」のことだった。
最近の韓国映画を見ていて思うのは、
ーーー日本にも言えますが、
子供を受験させて、良い大学、良い会社に入ってくれたらいい、
という、
子供の人格を無視して、お金や物を与え、「人としての教育をする機会の喪失」です。
その結果、子供達は、命を軽んじ、友人をいじめることも平気だし、自分を傷つけるのも厭いません。
「人が人らしく育つことが困難な環境」
「人を育てない教育制度」
既に、私の世代にも、いじめる子、いじめられる子が存在していました。
私が唯一取った姿勢は、どちらにも属さないこと。
しばらくして、わかったのは、この映画にもあるように、被害者面して「加害者」を助ける子がいること。
主犯格とその子分、そして、その行動するにあたって、補助役を務める子。
この役割分担の正確なこと!!
「机に向かって、全てを学べる子は、そう多くない」
ーーーいや、ほとんどいない。
体験が全てで、小さいうちから、「森や川、海」があれば、自然相手なので、「自分が優位に立つことがない」ことも学ぶし、「いくら暴れても、しっぺ返しをくうのは自分だとわかる」
そして、とても重要なのは「何をしても、許される空間」に癒されることです。
子供が、森の中で、木を蹴ったくらいで森林破壊にはなりません。
川で、手足をバタバタさせて、思うようにならない、ことを知るでしょう。
海で波をかぶるとき、大きかったり小さかったりする波に、自然の理を、身をもって知る、かもしれない。
その場に、同じか近い年齢の子が一緒にいれば、おのずと力を合わせなくては、「どうにもならない」と気付くでしょう。
「開発」という産業構造の中で、失ったものは、自然だけじゃない。
「想像性を持った、人らしさ」を育むことを捨てたのだ。
そして、男の子は女の子より繊細で、取り扱いが難しいし、手間がかかります。
そして、犯罪を犯した子の親は言うのです。
「うちの子に限って」
これは、いじめっ子に対しても同じです。
「うちの子に限って」
この親の「ものすごい現実逃避」つまり「子供本人を見ない」「こうあって欲しい像を子供に押し付ける」ことが、犯罪を犯すまで、放っておく原因になるのです。
いじめも立派な犯罪です。
陰湿さが増して、法文化出来ないだけ。
法律をきつくしばったり、改正したところで、人間の根本は変えようがない。
本来、「愛」を学べば、人を傷つけて歓ぶ「子供」などに育つはずがない。